「こだわらないということ」
一人の僧が川の水で弁当箱を洗っていました。そこに子どもがやって来てこんな事を言いました。
「その水は汚いから、あちらの川で洗ったほうがいいよ」
だが、僧は、こんなひねくれた返事をしたのです。
「仏教ではなあ、”不垢不浄”(ふくふじょう)と言って、きれいも汚いもないと教えている。こだわらない、こだわらない・・・・・」
「それなら、なぜ弁当箱を洗っているの?洗わなくてもいいではないか?」子どもは矛盾をついた言葉を発しました。
「般若心経」は「不垢不浄」を教えています。つまり、きれい、汚いといった差別は私たちが勝手につけたもので、すべての存在は本来「空」である。と教えているのが「般若心経」であります。「空」とは「こだわらない」ということだと思ってもらえばいいと思います。
だとすると、その限りにおいては、一人の僧が言ったことは正しいと言えます。
しかし、実はそこにこだわりが存在するのです。つまり、彼は「般若心経」が教える「こだわらない」にこだわってしまったのです。そのような僧の「こだわり」を小さな子どもがみごとに指摘したのです。
僧はこの事を、比叡山の師匠へ報告をしました。この師匠は早速、この子の母親に掛け合い、この子を弟子として比叡山へ引き取りました。
この子こそが、のちの恵心僧都源信であります。彼が比叡山に登った時は10歳の若さでありました。7歳で父を亡くしていますので、母は自分が孤独になるのを覚悟して、源信を出家させたのでした。
別れの時、母は源信に言いました。「お前が立派な僧になるまで再会はしない」と。
13歳のとき、源信の学問の優秀さが天皇に認められて、源信は天皇から絹を賜りました。それを母へ送りました。しかし、母は「私がわが子を手放したのは、こんな名誉心の僧になってもらうためではない」と絹を送り返したと言われています。
結局、源信は母に再会できませんでした。しかし、源信はのちに「往生要集」を著わし、日本の浄土教の基礎を築き上げました。
源信は母との約束を果たしたのです。
私たちの日常を考えると、こだわらなければならない事がたくさん、待ち構えています。
しかし、その「こだわり」を捨てた、その先に、求めるものが必ずあるように思えます。私たち人間は、勝手に価値を定め、勝手に決めつけたりと間違えを繰り返しがちですが、本来は「空」であって、「こだわらない」心にこそ近道が存在するのではないでしょうか。