源昌寺は佐賀県鹿島市にある浄土宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来です。江戸時代に山浦(南川・川内・山浦)及び本城の一部を所有していた深江氏の菩提寺です。 享保18年(1733年)に建立された享保の飢饉の供養塔があります。

当山由緒

江戸時代に山浦(南川・川内・山浦)及び本城の一部を所有していた深江氏(安冨氏)の菩提寺です。安冨氏は鎌倉時代中期から地頭職として深江(長崎県島原市深江町)を本拠としていました。天正12年(1584年)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が島原で島津氏・有馬氏の連合軍に敗れると、有馬氏と敵対していた安冨氏は、深江城を捨てて藤津郡へ逃れました。当主の安冨純泰(すみやす)鍋島直茂(なべしまなおしげ)信房(のぶふさ)のはからいで、隆信の息子の龍造寺政家(まさいえ)から深木(ふかき)村(現在の末光)に新地30町を与えられ、これが縁で、江戸時代以降も山浦と本城の一部を領有することになりました。なお、安冨氏は純泰の孫の昌武(まさたけ)の代に性を深江と改めます。
安冨一族とともに藤津へ逃れた中に、深江の菩提寺専称寺(せんしょうじ)の住職九誉(きゅうよ)(慶長3年没)がいて、初め領内の深木村に寺を建て専称寺としましたが、後に現在の地に移り、元和年間(1615年~1624年)に源昌寺と寺名を改めました。
墓地には「建寺大檀那(おおだんな) 源昌怊仙居士(げんしょうちょうせんこじ) 見誉清閨大姉(けんよせいけいたいし) 両霊位 天正拾九辛卯(かのとう)二月彼岸日謹誌之(つつしみてこれをしるす)」と刻んだ預修碑をはじめ、深江氏一族とその縁のある人々の墓が立ち並んでいます。源昌怊仙とは安冨純泰(元和6年 1620年没)の法名で、見誉清閨大姉はその妻です。
また、境内に「三界万霊六道四生道」と記された享保18年(1733年)の供養塔があります。享保14年(1729年)5月の大干ばつ、8月の大風に続く、同17年(1732年)の蝗害によって稲田は実らず、草までが蝗が食い尽くしたため、領内で老若男女約180人の餓死者が出ました。いわゆる享保の飢饉にまつわる供養塔です。
この供養塔は、第十二世誠誉上人により建立されました。
 
      文献「鹿島市の文化財 ふるさと歴史探訪」より


江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一つに数えられる。1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このため、イナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしました。

 弘前大学人文学部の助教授及び学生が訪問され報告書を作成されました。
 「供養塔の基礎的調査に基づく飢饉と近世社会システムの研究」より


当山に保管しています「源昌寺由緒」によると、安冨氏の先祖は清和源氏の流れで鎌倉幕府の御家人でありました。安冨民部三郎行位頼清(やすとみみぶさぶろうぎょういよりきよ)のとき、鎌倉時代の文永二年(1265年)肥前の国高来郡東郷深江村の地頭職に任ぜられました。以来、由緒書きの終わる宝永六年(1709年)まで実に440年の永きにわたって鎌倉武家社会政治への貢献、九州の山野を馬や海上の船を乗り継いで奮戦した模様が由緒書きへ刻銘に記されています。
龍造寺軍の逆襲に遭い、丹坂の敗戦以来失った家臣などの名前が書き遺されています。その中には、中国人の名前もあります。生き残った中国人もいたと推測され、操船術に長けたかは不明でありますが、外国との関係も
われます。
また、有明海の入江に建つ深江城は海陸での活躍が考えられていたと思われます。
深江城最後の城主だった安冨純泰氏の法名「源昌怊仙居士」(げんしょうちょうせんこじ)の意味するところは、源氏の繁栄を願いそれを明らかにした尊い人を惜しむという意味があります。



安冨氏は純泰の孫、昌武の代に性を深江と改めます。当山の由緒書には深江家系図が記されています。
深江家系図について
 深江家(本名 安冨 源性 家紋 竹笹)詳しくは下記のPDFをご覧下さい。  

 
 
深江家系図No.1(PDF
 深江家系図No.2(PDF

 清和源氏と安冨氏略系図(PDF)    

佐賀への苦難の敗走
 龍造寺軍の敗退後、城主である安冨純泰氏は篭城兵と協議をされた。「我らは今
 まで三年に及び龍造寺氏へ忠節を尽くしてきた。この上は深江城を持っていても
 甲斐がない。佐賀へ赴き龍造寺氏へ忠勤を励もうぞ。一族家人は言うに及ばず城
 中の老若男女一人も残さず引き連れ佐賀へ落ちのびるべきだ」と。島原浜の城に
 加番して連絡も取れない父・伯耆守純治、次男の新七郎を振り捨てて城を出るこ
 とに決定されたのである。城主純泰氏は妻子一族200余人を率いて城を出、翌
 日、神代村に着いた。深江から温泉山・鞍懸越の山々を足腰の強い男女は老人や
 幼児を背負って険しい難所を越えなければならなかった。神代には薩摩勢が入り
 込んでいたが、家人が先頭に出て戦い、敵を追い払い無事に神代の城へ入る事が
 出来たのである。神代から純泰一行は船にて藤津郡へ渡ったが、同行していた菩
 提寺の住職 九誉上人一行は陸路で藤津へ落ちたと言われている。その苦難の道
 中は筆舌に尽くし難いと由緒書に記されている。

 深江城から藤津郡への道筋(PDF

               
考図書(源昌寺由緒 2005年 大久保 昇氏 著)